ロータリーの友 2017年7月号
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THE ROTARY-NO-TOMO2017 VOL.65 NO.7 ロータリー日本100年史編纂委員会では、『ロータリー日本100年史』2020年の発刊に向け、議論を進めています。100年史を考えていく上で、ロータリークラブができる前の、ロータリーの初期の先輩たちが不思議としか言えないような縁で結ばれていたことを紹介したいと思います。あるロータリー前史 ポール・ハリス、アーサー・シェルドン、そして米山梅吉。いずれも、ロータリアンであれば親しみを覚える名前ですが、この3人に共通したものは何かと問われたら、なんとお答えになりますか。いろいろな回答が可能ではありますが、私は、この3人が同じ年に生まれていることに興味を惹ひかれます。明治元(慶應4)年、西暦で1868年なのです。米山が2月4日、ハリスが4月19日、シェルドンが5月1日となります。この年、日本は9月に年号が明治に変わりました。つまり明治維新の年です。アメリカでは南北戦争が終わってまだ3年。洋の東西が激動の時代であったのです。そのような時代背景の中で、シェルドンについては資料がなくて不明なのですが、米山もハリスも苦難の幼少時代を送っていたことはご存じの通りです。 この3人が同い年だということだけでも面白いことですが、3人が25歳になった年、1893年という年が、また大変面白い年になるのです。開拓時代、西部への玄関のような役割を果たしていたシカゴという町が、1871年10月8日の大火の災害を克服して、1893年にワールド・コロンビア・エクスポジションと呼ばれるシカゴ万国博覧会を開催したのです。シカゴという町が、東部から西部の辺境への入り口から、アメリカ中部の大都市へと変貌するきっかけになった出来事でした。 1887年に渡米していた米山梅吉は、5月1日から10月末までこの万博で、日本館の展示物の解説者として働いていました。日本館は宇治の平等院鳳凰堂を日本の宮大工が現地で精巧に再現したもので、大変な人気を呼び、後年、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトが、万博の日本館から大きな影響を受けたといわれています。 ポール・ハリスは、大学卒業後の「5年間の愚ぐこう行」の3年目、イギリス渡航から戻ってほとんど無一文に近い状態でこの万博を訪れ、いとこに見つかりそうになり、恥ずかしさから慌てて身を隠したとハリス自身が『ロータリーへの私の道』の中で告白しているような場面もありました。そんなハリスが、大きな話題となっていた日本館を見に行かなかったことは考えられないでしょう。そうだとすれば、説明役をしていた米山梅吉との相互に無自覚な歴史的接触があっただろうことも、高い確率であり得たことなのです。 同じ頃、シカゴで世界宗教会議が開かれていました。宗派を超えて世界中から宗教人が集まる会合は世界史上これをもって嚆こうし矢とされます。日本からは、臨済宗円覚寺の管長釈しゃくそうえん宗演が参加していたのですが、現地での宗演の世話役の一人が、後の大阪ロータリークラブの会員で「ロータリークラブ以前の大ロータリアン」と題して、二宮尊徳の思想がいかにロータリー思想と符合するかを英文で紹介した土屋元作(大夢)でした。当年33歳の宗演は、8月23日に万博を訪れています。曰いわく「……日本出品場に入る。……赤塗の日本大橋を超え宝玉殿を見る。華美、見物の白人頗る多くみな満足の色あり、喫茶店に入る。……此日入場者60万人、その混在開会以来未曾有といふ。」(井上禅定著『釈宗演伝』)ロータリアンの皆さまのご協力をお願いします 私は、このような不思議な縁が積み重なって日本のロータリーが誕生したと考えます。そして、その時から現在に至るまで、日本のロータリーの100年の変化は大きく、それをどう把握するかが100年史の最大の課題と考えています。引き続き、ロータリー日本100年史編纂委員会へのご協力をお願いいたします。第2780地区(神奈川県)1994-95年度ガバナー『ロータリー日本100年史』の発刊が近づいてきましたロータリー日本100年史編纂委員会委員長 神崎 正陳 (茅ヶ崎湘南RC)44

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