ロータリーの友 2017年7月号
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平成29年 7月号ロータリーの友7914宮崎県水産試験場が2004年に国内初のチョウザメの完全養殖に成功し、2013年にその卵から「宮崎キャビア1983」が商品化されました。毎年発売と同時に完売する人気で、2016年の伊勢志摩サミットの夕食会にも提供されました。山田 剛(宮崎県・宮崎RC)宮崎  宮崎キャビア一九八三区時代のガバナー役)・二六年に国際ロータリー理事・二八年に第七〇区ガバナーを歴任。まさに「日本ロータリーの父」で、「ロータリーの父」ポール・ハリス(一八六八~一九四七)と同年代の人でした。『国際ロータリー月報』(昭和一三年一一月号)に、当時の東京RC会員の身長と体重が載っていました。米山は「体重十六貫身長五尺四寸」とありました。およそ六〇㌔㌘、一六三㌢くらいでしょうか? 一九五二―五三年度、古澤年度の東京RCは、小林雅一ガバナーも出しています。小林氏は公私にわたり、米山に支援された人でありました。また古澤会長は大連RC会員当時、大連クラブによる「大連宣言」(一九二八年、古澤作)を米山が評価してくれたことに、感謝の念を持っ十六貫と五尺四寸の人高崎シンフォニー金子 秀隆 米山記念奨学会の事業は、日本が一九五一年のサンフランシスコ平和条約によって国際社会に復帰後の一九五二年に、東京ロータリークラブ(RC)の古澤丈作が会長時に提唱した「米山基金」が源流です。「米山」とは米山梅吉。この事業は彼の資産ではなく、国内ロータリアンの寄付金で賄われています。 一八六八年に生まれた米山梅吉は、和田竹造の三男で、父とは満四歳の時に死別し、母の里である静岡県三島で過ごします。一八七九年、長泉村の庄屋・米山家の養子に請われ、東京府吏や東京英和学校(現在の青山学院)などを経て、一八八七年、米山家に入籍後渡米し、大学で政治・社会学を修めました。 事業者としては、一八九七年に三井銀行入行、一九〇九年常務取締役、二四年三井信託株式会社創立社長、三二年三井合名理事、三四年三井報恩会初代理事長を歴任しています。三井報恩会とは、三井財閥が社会奉仕事業のために立ち上げた財団法人です。個人でも一九三七年、緑岡小学校・同幼稚園を創立、青山学院に寄付、夫妻で校長・園長を務め、青山学院の校友会長にもなりました。現在、青山学院初等部には米山記念礼拝堂があります。一九三八年、貴族院議員に勅選され、四二年に勲四等瑞宝章を受章。 ロータリー歴は、一九二〇年に東京RC創立会長・二四年スペシャルコミッショナー(無地(PHP研究所、二〇一六年)に「中国の思想家、魯迅(一八八一~一九三六)が、日本に留学していたときに指摘したことです。魯迅が日本に留学したのは一九〇二年からの七年余。当時、大国意識を持っていた中国は、日清戦争で日本に敗れたことを恥辱として反日感情を高めていました。 そんな中で魯迅は、同胞たちに、次のようなメッセージを送っているのです。『どんなことで日本人の悪口を言ってもいい。ただし、一つだけ、中国人は日本人の誠実さだけは学ばなければならない』。それほど日本人は、誠実だったということです」という趣旨のくだりがあります。 本当に大切なものは目に見えない、と思います。例会は毎週決まった時間に始まります。点鐘、ロータリーソング、食事、点鐘、と六〇分で終了です。同じことを繰り返します。それは、自己規律の修練のようでもあります。ご存じのように、ロータリーはアメリカで生まれました。それを日本に導入するために、米山梅吉(一八六八~一九四六)、福島喜三次(一八八一~一九四六)ら先達は奔走されました。日本でのロータリークラブ創立の原点です。 しかし、彼らはアメリカのロータリーを単にまねするのではなく、自分たちの中で消化し、日本人の精神性を融合させてきたのだと思います。そのエッセンスは、魯迅の慧けいがん眼が捉えたもの、誠実、ということだと思います。四〇周年を迎えた当クラブの歴史の中にも、それは脈々と流れているように思います。(第二八四〇地区 群馬県 不動産賃貸管理)

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